i click! Manhattan 1972-1986

マスター石原がマンハッタンで出会った魅力的な人々を綴ったポートレートフォトエッセイです。

渡米まで

中学二年生でカメラに出会ってから、カメラと共に紆余曲折を経て、
三六歳で初めて海外に渡る決意をしました。

仕事をしていた大阪万博で知り合った人を訪ねて、カナダをあちこち旅したあと、全く行く気などなかったニューヨークのマンハッタンに、まるで磁石のように引き寄せられて行き着くことになりました。

そこで幸運にも、たった一人いた友人に助けられ、放浪者になることもなく、すぐにスタジオで手伝いをさせてもらえることになりました。とりあえずの居場所と収入を得られて、フリーターのような暮らしが始まりました。

少しずつ環境にも言葉にも慣れた二年目、フリーランスで写真家の助手をするという仕事を教えてもらいました。
さすがはニューヨーク。世界各国から取材やロケで写真家がやってきます。
そして地理などに疎い彼らにロケ先の案内や、必要な業界情報などを教える手伝いをしました。

当時、すでに市内の著名な写真家のスタジオには、結構な数の日本人のアシスタントが働いていて、何人か顔見知りもいました。
ある日、その中の一人から有名なヘルムート・ニュートンがロケに連れて行く助手を探しているとの情報をもらい、会ってみるように勧められました。
そして面接を受けたところ、少しの質問をされただけで即採用となり、「嘘でしょ!」とほっぺたをつねりました。

仕事はプレイボーイ社の発行する『OUI』という雑誌のファッションページで、水着の特集の撮影でした。
ニューヨークは真冬だということもあり、ロケ地は温かいカリブ海に浮かぶ島ハイチでした。
高級ホテルの部屋とプールでの撮影で、途中で私自身がモデルに駆り出されるというハプニングの発生し、巨匠に写真も撮られてしまいました。
仕事は一日で終わり、残りの五日間は自由行動でした。

このロケで一緒になった三人の黒人モデルの中に、2メートルを超す大男がいました。
彼の名は、ジェフリー・ホールダー(何者であったかはのちほどご紹介しましょう)。
ジェフリーとの出会いから始まった、その後十二年あまりのマンハッタン暮らしは、思いもよらない驚きの日々でした。そして、まめにシャッターボタンをクリックし続けた結果として、多くが写真に残りました。

それらの写真にまつわるエピソードを、消えかけている記憶を辿りながら綴りったのが、この「i click! Manhattan 1972-1986」です。

幸運な出会い

マンハッタンでは、写真は撮れるものの、なかなか収入には結びつかない日々。
日系のリムジン会社で大きなキャデラックを運転して、商社マンや観光客を乗せてガイドも兼ねたアルバイトをしていました。
そうした日々を送っているとき、知り合いからフルタイムのアシスタントをしないかという話が入ってきました。

それは、当時まだ十五歳だった女優のブルック・シールズのヌード撮影をしたことで有名になった写真家のギャリー・グロスの仕事でした。スタジオは五番街二七丁目にありました。

主な仕事は大手化粧品会社の広告用の撮影でしたが、それほど忙しいわけではなかったので、思ったほどきつくはありませんでした。それに、頻繁に入る新聞広告用のモノクロ写真の現像とプリント作業のおかげで、知らなかった暗室テクニックを勉強させてもらうことができました。

ある日、ギャリーの弟がやって来てこんな話をもらいました。
「手伝ってほしい写真家がいるから、暇なときでよいから行ってくれないか」と。
ギャリーに確認すると、連絡がつくようにしておいてくれれば自由にして良いとの返事をもらいました。
早速、折をみて東八三丁目の高級住宅街にある自宅兼スタジオを訪ねたところ、その写真家は女性で全くの未知の人でした。

あとで分かったことですが、彼女は超有名なファッションフォトグラファーのリリアン・バスマンでした。
日本にいる間に見た写真集で知っている写真家といえば、アヴェドンとアーヴィング・ペン、ロバート・フランクくらいでした。
いかに無知だったかということです。
数日後、彼女から暇なら手伝いに来てほしいと電話があり、百貨店のカタログ撮影の助手を二,三回しました。すると、フルタイムで働かないかとの話をいただきました。
その旨をギャリーに伝えると「よしよし、俺のところにいるよりも勉強ができるから行きなさい」と快く送り出してくれました。
そして、彼女のスタジオ近くの八六丁目に手頃なアパートも見つかり、すべてがまさかという展開でした。

帰国

無謀にも目標も予定もたてないまま、ニューヨークよいう大都会に迷い込んでしまいましたが、大阪で生まれ育ったおかげか、初めての海外生活にそれほどたじろぐことはありませんでした。

言葉や習慣の違いに初めこそ戸惑いましたが、幸い日本人の友人がいてくれたことや、町の佇まいにどことなく大阪と似ている雰囲気を感じ、すぐに居心地のよい街になりました。

日本では大阪の高校をなんとか卒業し、さまざまな職業を転々としたのち、三十歳ころからようやく好きな道に入ることができました。そのときの経験のおかげで、ニューヨークで写真の世界との縁ができ、なんとか仕事にもありつけたと思っています。

とはいえ、そのクオリティーの格差には今まで自分のやっていたことはなんだったのだろう、と笑うほかありませんでした。

また、フリーランスのアシスタントという仕事のため仕事場も雇い主もころころと変わったので、収入も不安定でした。
ときには友人の食堂を手伝ったり、付近の地理を覚えてからは、日系のリムジン会社で運転手などもやりながらの暮らしでした。

一九八六年、体調を崩した不安感からホームシックになったことを機に日本へ帰ることにしました。
当初はすぐまた戻るつもりでしたが、ずるずると日本に居続け、友人のスタジオを手伝ったりするうちに、二度目の結婚をしました。

現在は信州最南端の人口千人程の限界集落を貫く国道一五三号線沿いで小さなカフェを、愛する妻と営んでいます。感謝。
しかし、そこに小さなスタジオを設け、ポートレート撮影などもこなしながら、執拗に写真との関わりを捨てられずにいます。

十五年ほどの長い旅をした、ニューヨーク。
面白くて厳しくて、でもすばらしい大学でした。

『i click! Manhattan 1972-1986』には、マスター石原のマンハッタンでの幸運な出会いと貴重な体験を詰め込みました。
当時のエネルギッシュな雰囲気と、才気あふれるフォトジェニックたちの彼ららしい表情を、この本を手にした皆さんと共有できることを幸せに思います。

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